"西蒲原"という愛郷心と"日本海"という国土軸と妄想”鉄”が織りなすことで私が目指すのは”未来のストーリーテラー”

お寺が海からやってきた?:越後西蒲原における真宗伝播の流れ(後編)

越後における真宗伝播は2ルートある・・・について今回は後編

  • 北陸道(越前・加賀・能登・越中)からのルート

について。

実はまだ調べ切っていない(苦笑)

 エントリーしておいて今さらの話ですが、実はこのことについて私自身まだ調べ切っていない。越前・加賀・越中サイドからの真宗伝播の様子がわからないと話を進められないからで、そこまで踏み込めていない私の甘さもある。時期を見てこのあたりについてまた一向一揆の関連する事象について、掲載しなきゃならない機会が出てきた時点で加筆修正するなり新しいエントリーするなどしてカバー・フォローしようと思う。

 そのようなことから各所・諸所をやたら引用が今はできないしするつもりはないが、能登・阿岸本誓寺など一部寺院を除いて「蓮如上人旧跡」ゆかりのお寺が多く、蓮如上人が北陸地域の真宗伝播の立役者と判断してもいいのではなかろうか?

蓮如(れんにょ)
 室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。AD.1882(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。(中略)

 親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し衰退の極みにあった。その本願寺を再興し現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから「本願寺中興の祖」と呼ばれる。

蓮如 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 またその基地として吉崎御坊も関係するのではないかと思われる。

吉崎御坊(よしざき・ごぼう)
 越前国坂井郡吉崎にあった蓮如の僧堂。吉崎山の山上にあった。現在、跡地が整備されている。 
<歴史>
 文明3年(1471)7月、蓮如は大津南別所を離れて、加賀国境に近い吉崎を訪れ、吉崎山に坊舎を建立した。 延暦寺の迫害を逃れて、この地まで来たが、多くの門徒が訪問し、町ができたという。 この地に滞在中、蓮如は、各地の門徒に消息(手紙)を出し、教化に励んだ。この消息は現在、『御文章』(『御文』)などとして知られる。また正信偈の開版を行うなど、精力的な活動をみせた。しかし、文明7年(1475)8月、一向一揆が守護の家臣と争い負けたため、責任を取ってこの地を離れた。滞在すること4年だった。 その後、越前加賀の門徒によって維持されてきたが、永正3年(1506)8月、加賀一向一揆と朝倉氏との戦いで焼失した。
 (以下略)

吉崎御坊 出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)最終更新:2015年9月22日(火)

 この引用した神殿大観というサイトに蓮如旧跡なる項があるので調べてみると面白いかと思う。

それを踏まえて能登

 地域史などの参考文献(主に巻町史)を調べてみると、どうやら真宗寺院を設置した寺には信濃から移住してきた組と能登から移住してきた組とがある。そのひとつである能登の空気感を感じ取らないとわからない部分を感じ取るために能登へ車を走らせたくなった。そして道中で調べていくうちに「阿岸本誓寺」というワードにたどり着いたのです。

ということでここで先程”除いて”扱いをした能登・阿岸本誓寺について触れておきたい。

  門前町南の阿岸本誓寺は、文永5年(AD.1268)創建と伝えられ、かつては鳳至郡106ケ寺の触頭をつとめた県下有数の真宗大谷派寺院である。境内は築地塀で囲われ、本堂、山門、鐘楼、鼓楼、庫裡、書院などの伽藍が建ち並び、当時の大坊の面影を保持している。

石川県ホームページ「石川県の文化財-建造物(県指定)」の阿岸本誓寺本堂附棟札2枚より引用
阿岸本誓寺 2019.9時点で修繕工事中

 西暦1200年代後半より受け継がれている寺院、ということは創建時期に蓮如上人の息がかかっていない時期からの寺院。ということは前述した北陸伝播する前からの寺院ということになる。

 まだ詳しく調べ切っていないので細部までの名言を避けるけど、おそらく「鳳至郡106ケ寺」地域の中本山または本寺の扱いをしていたのが阿岸本誓寺ということが”なんとなく”だがわかった。

 そして参考文献により西蒲原地域の寺院の移住元と思われる地域を訪ねてみた。車を走らせて気づいたのだが能登半島は山地が多く平野部が少ないのである。海岸も山がせり出しているところにある。隣の集落へ向かうのに一山越えなきゃならない地形を成しているのである。

 そんな能登半島に車を走らせてある寺院の移住元と思われる輪島市鵜入町へ向かった。

鵜入町全景

 小さな湊(漁港)の町である。一見こんなところに寺院が?って思うだろうが、草庵程度ならあってもおかしくないし、町の入り口に以前?現在?に神社もあったほど。

 そんなことからある仮説が生まれる。

「阿岸本誓寺を中心に能登の真宗伝播がなされ、寺院や草庵が新しい地を求め越後に移住した。そしてその手段は海・・・と。」

お寺が海よりやってきた

 普通古人(いにしえびと)の交通手段は徒歩と想像しがち・思われがちである。でもちょっと待って!、以前私の拙稿にて「伊夜比古さまの渡来神伝承」のなかで「古代・近世ではすでに能登の人たちは造船技術を持っていた」と記した。ならば中世の終わり頃も能登をつないでいたものは実は船だったのではないかと。船ならこのような狭い湊町でも交通手段として成立するはず。船が交流手段なら移住手段も船。

 なお先程の鵜入村(町)などの村落からたどり着いた移住先は新潟市西蒲区で間瀬・角海浜・五ヶ浜・越前浜などが挙げられる。

 ちなみに越前浜は越前国坂井郡小橋屋村(現福井市)より移住してきた村落である。隣接村落の角田村で飼っていた鶏の鳴き声が聞こえて「ここなら人が住んでいる」と認識し上陸したという話が伝えられている。

 このように能登が真宗伝播にとって重要な地であり、また一部の寺院は吉崎から直接やってきた寺院もある。このような形でまさに真宗が海からやってきたのである。

 前回は渡来神伝承
 今回は寺院の移住先

 それに対し「海」

 ということでこの項を閉めておきたい。


(引用サイト以外の参考文献)


巻町史 通史編上
岩室村史 中世の岩室第4節
村・家・人 「巻町双書 第16集」

巻村史話 -亡き父吉川嘉兵衛の霊に捧げるー 「巻町双書 第6集」
越後における真宗の展開と蒲原平野(田子了祐:著 出版社:考古堂書店)
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