"西蒲原"という愛郷心と"日本海"という国土軸と妄想”鉄”が織りなすことで私が目指すのは”未来のストーリーテラー”

改めて西蒲原とは? そして定義とは?

私の活動原資のひとつに”#誇れる弥彦角田山麓を伝えたい”というものがあり、そのタグの前身として”#誇れる西蒲原郡を伝えたい”というものがあった。

そのことについてこのブログの中でも

と記してきましたが、改めて西蒲原の定義について記します。

改めて西蒲原とは?

 元々西蒲原の地名は

 新しくできた潟の西にある鎌谷足が生い茂る原

 から来たかどうかわかりませんが、そのようにイメージされる地名です。

 しかし西蒲原というとイメージしやすいのは、現在の新潟市西蒲区だと思います。

 

 しかしこの地名は小泉政権時に推し進められた平成の大合併によるものから来ていて、新潟市民は新しい地名を与えられ、精神的に求められたものだったんです。

 まぁ西蒲原区も言いにくいですけどね(笑)

しかしそうではない・・・ものが見つかりました。

西蒲原郡沿革図というものです。

昔の西蒲原の町村を見ると歴史を感じました。

 その後に見つけた西蒲原郡町村図。この図を見つけた時に何かが弾けました。
 
 もともとの西蒲原郡は右の画像のように広い範囲のことを指します。

西蒲原郡ができたのは明治維新後

さてここからは

の記事を部分抜粋した再掲をする。


 もともとは7世紀以降に生まれた越国の中の磐船と渟足の2郡から成り立った越後国の前身。その後大宝2(702)年に越中国だった頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡を譲り受けて今の越後国のかたちとなった。
 (なお正確な沿革とその後の紆余曲折については割愛する。今回は判りやすさという点で記したのを注釈追記しておく。)

 蒲原=や葦が生い茂るっぱ

 と訳される蒲原郡(蒲原地方)。その蒲原郡の西側地域なので西蒲原郡である。ちなみに蒲原郡は東西南北中とあり、北は新発田市周辺・東は今の阿賀町全域・中は新潟市港南区秋葉区が中心(中央区沼垂までが中蒲原)・南は三条市や加茂市が中心の地域である。

 さて西蒲原郡はかの戊辰戦争から明治維新を経て新政府による廃藩置県が明治4年に行われ、その後の明治11(1878)年に地方三新法のひとつである郡区町村編成方が施行されまずは2町350村で発足した郡である。
 そして明治22(1888)年に町村制が施行することとなり、2町77村に統廃合(合併)されて西蒲原郡が再編成された。

 その頃からの町は今も洋食器の街で知られていると大河津分水のお膝元であり、三国街道の宿駅並びに北国街道横道の分岐点である地蔵堂(現在の燕市分水地区に存在)の2つであった。
 その後郡役所が置かれた巻村が町制に変わったのを皮切りに吉田・内野・曽根のそれぞれが町制を敷くこととなる。なお燕町が市制施行したり今の新潟市西区のほとんどの区域(旧黒崎町以外の部分)が新潟市に編入されたのは戦後のことである。

 なお・・・

 この沿革図を見ると、昔からの新潟市域(つまり古町や白山や関屋など現在の通称新潟島と呼ばれる地帯)も西蒲原郡の一部と見えるわけだが、この図の頃である明治33年9月の時点は既に市制施行し新潟市となっていたので当然西蒲原郡ではない。

 これについてはどうやら明治4(1872)年の戸籍法施工とともに、明治5(1873)年に大小区組合を設けたことが起因のようである。つまり旧第1大区(当初の新潟市)と旧第2大区と旧第3大区が西蒲原郡と区分されたため、新潟市と西蒲原郡は同じ区域としてみなされたようだ。もっとも北国街道からの交通の流れは西蒲原区域から新潟市へ続いた流れなので自然といえば自然だ。

 ちなみにこの後、地方三新法の制定より旧第1大区→新潟区→新潟市・旧第2大区と旧第3大区→西蒲原郡となった。
(注:今回は分かり易さを尊重したのでこの表記とした。正確なものは多少違うが間違ってはいないのでこの説明とさせて頂きたい。)

 こう見ると今見える枠組みや地域を学ぶには以前の枠組みの歴史的背景や地理的要素を振り返ることが重要に思えてならない。そのことを再認識できた図だったのである。

おさらい・西蒲原の定義とは

 以上の振り返りより、これを私の西蒲原の定義とする。