"西蒲原"という愛郷心と"日本海"という国土軸と妄想”鉄”が織りなすことで私が目指すのは”未来のストーリーテラー”

日本海側が物流の大動脈だった時代:北前船(後編)

 前回は北前船の誕生について記した。

 [前回のエントリー]
 北前船が誕生した経緯についての概略:北前船(前編)

 今回は北前船の後編として私が感じた雑感を記す。北前船考察ではないあくまで雑感である。
 私も北前船に関して少しかじった程度なので詳しくない。従って私がでしゃばって物を書いても説得力も意味もない。詳しいことは調べた専門家に任せる。
 ここではあくまで「私が小学校の頃の夏休みの宿題にあった読書感想文」のような気分で思ったこととして記してみる。

 (前回同様こちらをメインの参考資料としました。)

北前船寄港地ガイド(加藤貞仁・著:鐙啓記・写真:無名舎出版)

北前船 寄港地と交易の物語(加藤貞仁・著:鐙啓記・写真:無名舎出版)

北前船の寄港地

 まずは北前船の主な寄港地について、上記の参考資料を元にして一般財団法人日本総合研究所さまが下の地図を作成してくださったので、まずはそれを引用したい。

(一財)日本経済研究所の作成資料より赤文字で加筆したもの

 上記が一応主な寄港地なのだがこれはあくまで主要なる大きな荷受地・荷捌き地・販売地である。実際は様々なところに商売をしていたわけで、小さな入江ががあり小さな湊があってそこに人が住んでいれば寄港地となったのである。

 そのようなことが旧西蒲原郡巻町が発行した巻町双書に記述してある。

 ナヤ或はナヤモトといわれた家は”なお武七”とか”四郎右衛門”とか全部で四〜五軒は下らなかったという。そのナヤモトは漁だけのナヤモトでなく、おそらく廻船業もしたのであろう。現に城願寺の逃去帳には三国沖で死亡との記事もあるとしうし、所謂、越前石も決してして珍しくはないのである。
 そしてつんでゆくものは、福井相場といってこの近郷でただひとつの米相場のたった福井があり、ムラにも五〜六軒のクルマヤがあり、舟戸の人たちは米を馬にダンズミして五箇をまわって角海へ来たというような話からもおそらく米が主でなかっだろうか。そして越前石は帰りは衣類 ・紙・瀬戸物などなのでその舟の重みのためにもってきたのであろうどいう。五箇での話では角海でも廻船はたしかにあったと聞いた。

巻町双書 第16集 村・家・人 の角海の項より

 具体的に北前船という単語が記載されていないながらも、手法は北前船そのままの手法で行なっていたことがわかる。大きな廻船業から小さな廻船業まで玉石混合のごとく交流していたということは北前船は廻船業者のことを指すものではなく海路海運のシステムのことを指すことがわかる。

 また以前のエントリーに掲載した写真からもそのことを伺う事ができる。

 例えば西廻り航路の寄港地である福浦湊

 例えば鵜入湊

 これらの集落、地形的に山に囲まれており隣の町村へ行くには一山越えなければならない。従って徒歩や馬車を使うのも一苦労で経済的ではない。
 しかし海路を使えば一気に物が運べるし風待ち湊と言う機能も果たせる。

北前船から教わること

 前回のエントリーで「物の需給ギャップによる価格差」を流通することで利益を確保していたと記したが、当時の北前船は物や人の流れだけでなく各地で様々な情報も仕入れていて、彼らから情報を聞き出すこともできた。つまり物流総合商社けでなくマスメディアの機能も持っていた。

 上の写真から見えて「陸の孤島」と思われても仕方のない土地にて、実は物流と情報のやり取りをしていたと思うとびっくりである。

 そんな北前船も終焉を迎える。今回は読書感想文なので詳しい引用はしないが、陸路交通に鉄道が加わって会場よりも早く移動ができたこと、それにより情報の流れが行き届くようになり物の需給ギャップの価格差のビジネスが成立できなくなった事、トドメは日露戦争により日本海が危険になった事。これにより日本の経済軸は太平洋側が主軸となり日本海側が繋がらなくなったのだと私は推察する(が実際は諸説あろう。)

 そこでこの北前船を知る事で日本海側が表日本だった歴史が事実だったと振り返ることができるし、日本海側回帰の可能性も秘めていることにつながっているものだと理解もできる。

(この項の終了)

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