"西蒲原"という愛郷心と"日本海"という国土軸と妄想”鉄”が織りなすことで私が目指すのは”未来のストーリーテラー”

(仮称)西蒲原学・・・って何? -地域発信の学問があったっていいと思う-

 私の思うところではあるが・・・

 私の将来の目標・・・いや、野望は(仮称)西蒲原学の確立にある。

 もちろん大いなる野望であって実現するとは思っていないのだが、実現するんだと言う意気込みがないと歩けないので無理を承知で野望として立てている。

 ただ,そもそも(仮称)西蒲原学って何?と言う疑問もあろう。そこで今回のエントリーは(仮称)西蒲原学のことについて記す。

学校教育だけでは学びの限界がやってくる

受験はどのくらいあるのだろう?

 さて学校教育で習う教科は何だろうかと考えてみる。

 小学校では国語・算数・理科・社会(生活)・英語・体育・図画工作

 中学になると算数が数学に変わったり図画工作が美術と技術に変わったり

 高校になると国語が現代国語と古典、数学が数学なんだろうけど昔は代数幾何・基礎解析・確率統計だったり、理科なら生物・物理・化学・地学あたりか?、社会なら地理・歴史・公民(現代社会?)などなど

 ただ学校教育とは上位の学校に入るための教育と思えてならない。事実高校入試・大学入試などが存在する。ともすれば有名私立中学入試や小学校、はたまた有名私立幼稚園の入試(いわゆるお受験)というのも存在する。

学校から習った教育は実生活に身についていますか?

 確かに上級の学校に入るために試験というものが必要で、その優劣やふるい分けをするために必要であることは疑いの余地はない。またそう言った学力向上による文化的民度の向上に一役買っているのではと思う。
 しかしそれとともにこれをご覧の諸氏はこのような経験がおありではなかろうか?

 実社会に出ると学校で学んだことをすっかり忘れてしまうこと

 結局試験をするために学んでしまい学生生活から離れると学んだことが知識として残らない。また残らないからこそ知識から知恵にも結びつかない。これでは何のために学校で学んだかわからない。 例えいい会社に就職するための学生生活と断定したとしても、個人個人の諸事情により退職せざるを得なくなった時に果たして受験勉強と割り切ったとしても、知識としての活用が薄れてくるのでは?と思ってしまう。

社会人になっても学習しなければならないのだ

 社会生活を送るには様々なスキルが必要になってくる。例えば理数系の技術系職業に就けば否が応でも数学と理科の知識が必要になってくる。営業職であれば数字に強くならなきゃいけないと同時に交渉力も必要になるから国語や海外の国語である英語が必要だろう。

 三平方の定理とかsin・cos・tanなんて実生活に必要ないと思うけど、建設業界や測量業界でこれが身についていなかったら笑わるもの。現在は直接実務や計算に必要なくてもせめて理論は知っておかなければならない。

 主婦や主夫は食事や洗濯や掃除をするので家計簿をつける算数が必要だし、天気予報による気象のスキルも必要だし、旬を掴み取る生物のスキルもあった方が良い。日曜大工が技術家庭だし健康増進は体育だし・・・(略)

 このように学生生活を終えても学んだことが生かされなきゃならないわけで、実生活にでたときの学力が必要なわけだし、受験勉強で培ってきた”考え方”も世の中を生きるためには必要になってくる。

学校教育だけではこの切り口に限界がある。それは・・・

 ただ受験勉強で考え方を培ったとしても学校教育ではできないことがある。それはひとつのテーマに対して教科を跨いだ相互する総合学習である。

 例えば新潟砂丘列をテーマとして取り上げた場合、新潟砂丘列には様々な砂丘の形がある・・・などというのは理科・地学の話だし、そもそもどのようにして出来たのかというのも理科・地学。

 しかしここがどのような地形の形をしているか(例えばの話三角州や扇状地の類の話)は地理だし、新潟砂丘で取れる作物や西蒲区越前浜にあるカーブドッチも地理。

 しかしなぜここにカーブドッチができたのかというと歴史の話になってくる。しかしなぜそういう思いに駆り出された話になるとひょっとしたら学校教育で学べない心理学の範疇になるし、そのことが作品となって国語や美術に出てくることにもなろう。

 つまり、テーマを決めたらひとつの教科で知り得ることに限界があるのだ。
 従って単一強化を学んでいてはわからないことも教科の教科を跨いだ相互する総合学習をすることで知り得る幅が広がる。

 ただこれは個人的だが本来の学びにはそれが必要なことにもかかわらず、学生時代にそれが身についたか?というと皆さんはなんと答えますか?

 例えそれができなかった場合でも実社会に出てもなお身に付くチャンスがあったらどんなに素敵なことかと考えてしまう。

 それを我が地域で実践する手段・・・それが(仮称)西蒲原学の目指すところなのである。

地域社会が育てる教育

ただ正直実現できるとは思っていない

 ただ野望として目指すとは言ったものの、正直言って実現できるとは思っていない。なぜなら私には最大の弱点である運営仲間がいない(注:これを記している2020.5.5現在)からだ・・・つまりぼっちですな俺(笑)

 そこで現在の活動は仲間探しというか私の考えを聞いてくれる人を探すためにあちらこちら方策を考えてます。そのうちこのブログ上でも書くかもしれないサイクリングネタも方策のひとつとして動いている最中です。

誰でもウエルカム -みんなが生徒みんなが先生-

 現在私の活動は地理と歴史とそれに関連することを主題として取り上げているが、(仮称)西蒲原学は地理や歴史ばかりではないことを言っておく。
 あくまで私が言い出しっぺで私ができることはそう言ったことなだけで地理と歴史に関することだけが(仮称)西蒲原学では決してない。

  • 農家の方
  • 画家の方
  • 私よりも歴史に詳しい方
  • 方言を駆使する年配方
  • 味噌や漬物づくりの天才
  • プロの料理人
  • Webマーケティングやライティングの得意な人
  • 山登りの名人
  • とあるお寺の住職や神主

 私も地域の食材を食べられればおいしいと感じるし、天気がいい時は体を動かしたいと思う時だってある。これをこの地でやりたいと思う人はどんどんやっていき、それをデータベース化ができればようことではなかろうか。

 (仮称)西蒲原学の運営は得意なことを先生役となって知らないところは生徒役になれば良い考えである。誰でもウエルカム -みんなが先生みんなが生徒-である。

地域社会が育てる教育があってもいいじゃないか

 最近モンスターペアレンツなど親が子供を庇うようにして存在することが多くなってきたように思える。先生に食ってかかる親とか。でも私の頃は先生に叱られたら親からも二倍になって叱られるようなダブルパンチを喰らったこともある。それだけ教育も変わってきた。

 と同時に近所から怒られる子供がいないなぁとも思える。それこそ叱られた日にゃ親が怒鳴り込んでくる社会。近所も変わり者も多くなった社会になったし・・・世代だからだろうか少し憂い感を覚える。

 最近出現した地域の茶の間や子供食堂ができた流れはその憂いからきた現象なのではと感じている。「地域が社会を育てた時代・社会が地域を育てた時代」では現在なくなってきているが、地域の茶の間や子供食堂が出現したということは「地域が社会を育てた時代・社会が地域を育てた時代」をどこかで欲しているのだろうと思う。

 そこで「地域社会が育てる教育があってもいいじゃないか」と私は考える。そのことからテーマを「西蒲原郡」と固定して教科を跨いだ相互する総合学習が私のいうところの(仮称)西蒲原学である。例は上記に書いた新潟砂丘を件でわかるかと思う。

最後に○o○○○○(笑)

 以上が今日の話だが、何もこの動きは今までなかったわけではない。取り組みとして新潟市「地域と学校パートナーシップ事業」として表れているからだ。だからここで俺が先んじてする必要性や正義性など全くないことを後書きとして記しておこう。

 最後にちゃぶ台を返すのである(笑)

 まぁ私がやることで周りが楽しめて、私自身も楽しめることをやっていきたいとは思っている。(了)

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